菊地慶剛 = 文
text by Yoshitaka Kikuchi
photograph by Getty Images
イチローの美学とメジャーの現実
衝撃のトレードの真実を完全レポート!
7月23日に正式発表されたイチロー選手のトレードは、まさに米国中に“衝撃”をもたらした。特にマリナーズに近い人間ほど、そのショックは大きかったようだ。
「3時頃球場の記者席にいた自分に電話がかかってきた。自分の後方に座っているニューヨークの記者の1人だった。そして『イチローが投手2人と交換でヤンキースにトレードされたぞ!』と切り出した。自分はジョークだろうと笑い飛ばし、また自分の仕事に戻った。しかしその直後に『YES(ヤンキース戦中継を担当するTV局)』のジャック・カリー氏が『イチローがトレードされた』とツイートしたのを確認し、さらにイチローのトレードを認める電話が入ってきた。自分の記者人生の中で最も慌ただしい日が始まった」
長年マリナーズを担当している『シアトル・タイムズ』紙のラリー・ストーン記者が記事でその瞬間を描写しているように、現場で取材している記者にとってもイチローのトレードは青天の霹靂だった。マリナーズ戦中継でいつも解説者を務めているマイク・ブロワーズ氏もTV中継中に自身の驚きぶりを披露した。
「球場の駐車場でイチローのトレードを聞いたよ。最初はいつものようにトレード期限が迫ったこの時期の噂だろうと思った。しかしそれが本当だとわかり、とにかく驚くしかなかったね!」
同じくマリナーズ戦中継で試合リポートを担当する女性リポーターも以下のようなエピソードを紹介している。
「今日はケン・グリフィー・ジュニアさんから数度電話がかかってきました。最初は『(トレードは)本当なのか?』から始まり『背番号は何番になるの?』と立て続けに質問されました」
「イチローのトレードはない」と、1週間前にマリナーズGMが明言!?
彼らの動揺も当然といえば当然だろう。
わずか1週間前の7月15日に、FOXスポーツの公式サイトがマリナーズのジャック・ズレンシックGMの単独インタビューを行い、イチローをトレードする考えがないことを大々的に報じていたばかりだったからだ。
しかしストーン記者が「これほど情報がリークしなかったのは珍しい」と説明しているように、このトレードは正式発表まで一切の情報が漏れることなく水面下で進行していたのだ。
それは……このトレード交渉が異例のかたちで進んでいったからに他ならない。
GMを超え、両球団上層部で取引された異例のトレード。
その舞台裏をヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMは説明している。
「今回のきっかけはGMを超えた上層部で行われていた。ランディ(・レビン球団社長)から『イチローに興味あるか? チームにとって理にかなった獲得になるのでは』と打診を受け、そこから交渉が始まった」
元々はマリナーズのチャック・アームストロング球団社長からレビン球団社長にイチローをトレードしたいという旨の打診があり、そこから交渉を担当するキャッシュマン、ズレンシック両GMの手に委ねられていったという流れだった。つまり今回のトレードは、トレードを担当するズレンシックGMというよりもマリナーズ球団首脳部の意志だったことがわかる。
そしてチームがイチローをトレードするという決断に至った経緯も、記者会見で明らかになった。
「イチロー・スズキから代理人のトニー・アタナシオ氏を通じて球団社長のチャック・アームストロングに彼のトレードを考慮してもらえるように打診があった。イチローは現在チームが将来に向けた再構築期にあることを理解し、若い選手たちに出場機会を与えるために自分はチームを去るべきだと決断した。我々も彼の考えに同意し、彼のトレードを決めた」
2000年オフにイチロー獲得の中心人物の1人だったハワード・リンカーン球団会長兼CEOが、今回のトレードがイチローの要望であったことを明らかにした。そしてイチロー自身も、トレードをチームに打診する決心に至った心境を披瀝した。
「オールスター・ブレイクの間に自分で考え出した結論は、20代前半の選手が多いこのチームの未来に、来年以降僕がいるべきではないのではないかということでした。そして僕自身も環境を変えて刺激を求めたいという強い意志が芽生えてきました。そうであるならば、できるだけ早くチームを去ることがチームにとっても僕にとってもいいことではないかという結論でした」
“このトレードはイチローが望んだものだった”という驚愕の事実。
イチローのトレードが決まったこと以上に人々を驚かせたのは、まさに“このトレードはイチローが望んだものだった”ということだ。
マリナーズのエリック・ウェッジ監督もイチロー自らチームにトレードを打診していたことについて「我々すべてがある程度の驚きを感じている」と説明していることからも、その衝撃の度合いは窺い知れるだろう。というのも今回のトレードが、メジャー球界にある程度固定化していた“イチロー観”を180度ひっくり返すものだったからだ。
これまでイチローは何度となく「1チームで野球人生を全うしたい」という考えを口にしてきた。つまり今回のトレード打診は、イチローが長年抱えてきた自分自身の美学、哲学を変えたことに他ならない。
イチローの美学と哲学が通りにくくなった現在の球界。
実はイチローのように1チームにこだわる考え方は、現在のメジャー球界の流れに逆行するものだった。
FA市場が肥大化し、さらに主力選手のトレードまでもが一般化している現在のメジャー球界。今では選手たちの目標は、毎年のように変わっていく所属チームに忠誠を尽くすことではなく、自らが優勝を経験するということ以外なくなっている。だから実力のある選手になればなるほど、優勝を狙えるチームを求めて積極的に移籍していくのが当然というのが現在の潮流なのだ。
例えば最近ではこんな例がある。2010年のアストロズは開幕から大不振が続き、メディアが一斉にチーム再建を論じ始めた。それに呼応するかのように、高額契約を結ぶランス・バークマン、ロイ・オズワルト両選手が「チームが再建に進むのであれば、自分はその邪魔をしたくない。自分の野球人生も終わりに近づきつつあり、優勝を狙えるチームに移籍したい」とトレードを直訴し、それぞれヤンキース、フィリーズにトレードになった。地元メディアも彼らの言動を批難することもなく、むしろ潔さに賞賛を持って送り出している。
毎年優勝争いから早々に脱落し、再建もままならないマリナーズ。
現在のメジャーでイチローがその美学を貫くことの難しさを、7年間マリナーズに在籍しイチローを見守ってきたウィリー・ブルームクイスト選手は以下のように説明してくれた。
「なかなか自分の考えているような完ぺきな世界はない。確かにデレック・ジーターのようにチームは勝ち続け、ずっとその主力選手として活躍できることもある。しかしイチローが入団した2001年のマリナーズは強豪で、しかも彼がその大きな要素を占めていたが、それ以降チーム状況は変わってしまった。もちろんイチローは自分が主力としてずっと勝ちたかっただろうが、それができない状況にフラストレーションもあったはずだ。残念ながらどんな楽しいことでも必ず終わりがやって来るということだよ」
しかしイチローはマリナーズにこだわり続けた。その一方でマリナーズは2004年以降勝ち越しシーズンわずか2度と、何度となく再建期にあるといわれながら、本格的なチーム再建に着手することをしてこなかった。
そしてチームは毎年のようにシーズン早々に優勝争いから脱落し、シーズン終盤のファンの関心事はイチローの200安打達成だけになっていた。もちろんイチローは少しでもファンを喜ばすために、計り知れないプレッシャーと戦い続けながら、自分の記録更新に集中した。しかしその姿勢は時として誤解を招き、チーム内から「イチローは自分の記録しか考えていない」という内部告発が起こったこともあった。そして、ここ数年は地元メディアからもイチロー不要論が度々巻き起こった。イチローが心を痛めていないといえば、それは嘘になるだろう。
イチローの決断を、両チームのファンやメディアも賞賛。
しかし今回のトレード成立で、そんなネガティブなイチロー観が払拭されることになった。そして前述のバークマンやオズワルトのように、イチローの決断が皆から賞賛されていることも間違いない。シアトル、ニューヨークはもとより、各メディアが一斉に今回のトレードが両チームにとって最良のものであり、「イチローは正しいことをした」と論じているのだ。
ただしこんな意見もある。前述のブルームクイストの見解だ。
「イチローが正しいと決断したことが正しいことだと思うし、彼が新しい環境で優勝を目指せるようになり本当に良かったと思う。しかし仮にイチローがシアトルに残り、マリナーズで野球人生を終えたとしてもそれもイチローにとっては正しい決断だったはずだ。彼はそれだけの素晴らしいことをやってきた選手なのだから」
結果として、イチローを取り巻く環境が彼の美学、その哲学を貫き通すことを拒んだということになる。特にイチローにとって、彼を支え続けたマリナーズ・ファンと別れることは最も辛い決断だったはずだ。移籍後の記者会見で感極まって言葉を失いかけたのは、ファンに感謝の言葉を告げているときだった。
「2001年から、チームが勝ったときも負けたときも、僕が良かったときも悪かったときも、同じ時間や思いを共有できたことを思うと大変感慨深いです。そしてそのどんな時も、僕にとってファンの存在が大きな支えでした。11年半、ファンと同じ時間、思いを共有したことを振り返り、自分がマリナーズのユニフォームを脱ぐということを想像したときに、大変寂しい思いになりましたし、今回のこの決断は大変難しいものでした」
ファンに向け、右手でヘルメットをかざし、深々とお辞儀を……。
奇しくもヤンキースのユニフォーム姿を初披露したのはマリナーズ・ファンの前だった。3回表にヤンキース移籍後の初打席に立ったとき、ファン総立ちのスタンディングオベーションを受けた。イチローは、これまで彼らの前で偉業を達成してきたときのように右手でヘルメットをかざしただけでなく、一塁スタンドとフィールドに向かって2度深々とお辞儀をした。“日本人”イチローなりの感謝と惜別の挨拶だったのだろう。
すでに何人かの評論家が今後のイチローを論じているが、環境が変わることでの彼の復活を予測する一方、むしろニューヨークの厳しい環境がプレッシャーになるのではという厳しい意見もあり、賛否両論が飛び交っている状況だ。いずれにせよ今シーズン限りで契約が切れるイチローにとって、選手層の厚いヤンキースに入り残り2カ月半でどれほどの活躍ができるかが、来シーズン以降の彼の将来を大きく左右することになる。彼が刺激を求めて決断を下した今回の挑戦は、決して安穏としたものではないことだけは確かだ。
images: via numberweb